第1回 ゴースケ(フレンチ・ブルドッグ) /内村コースケ(フォトジャーナリスト)
愛犬と飼い主は、さまざまな形の絆で結ばれています。パートナーとして歩んできた道には、それぞれのかけがえのない物語があることでしょう。毎日の散歩を通じて、私たちはその愛の物語を紡ぎます。
本連載では、そんな皆さんの「散歩みち」を紹介していきます—— 。
第1回は、この連載の取材・撮影を担当する私自身の「散歩みち」から・・・。
売れ残りの子犬
ゴースケは、僕が初めて迎えた犬だ。当時まだ30代半ばだった僕は、会社員としてつらい時期を過ごしていた。新聞社でカメラマンをしていたのだが、「写真を撮る」という本来業務以外の人事や待遇、人間関係といった会社組織の中での問題が、自分の身に重くのしかかっていた。僕は、そうした人間社会特有の膨張した「群れの掟」のようなものを人一倍負担に感じるタイプなので、心療内科に通うほど精神的に参っていた。
その頃から一緒に暮らし始めた今の妻が、フレンチ・ブルドッグを飼いたいと言い出した。僕が会社を休職して時間を持て余していたこともあり、日中の世話は僕がするということで迎えることにした。当時はまだ2人とも犬を飼った経験がなく、今にして思えば飼い主の責任などについて深く考えていなかったと思う。ペットショップを何軒か回った末に、売れ残っていた“かわいそうな子”を選んだ。
その子犬は、白と黒の模様がきれいに分かれ、お尻にハートマークがついていて、とても「イケメン」だった。けれども、性格は繊細で、ショーケースから出すとショップの片隅に逃げてブルブルと震えていた。ペットショップで売れ残った犬の運命は、当時の僕らも薄々察していた。その子を買うと言うと、若い女性の店員は「良かったねえ、良かったねえ」と涙を流していた。子犬は、“お持ち帰り”用のダンボール箱に入ると、震えは止まり、僕たちの顔を舐めてくれた。僕はそんな彼に親近感を感じ、分身的な意味を込めて、自分のペンネームに濁点をつけた名前をつけた。
転機を共にした“恩人”
最初に見せた繊細な性格通り、ゴースケは散歩に連れ出してもすぐに固まってしまい、なかなか歩こうとしなかった。毎日散歩をすることを夢見ていたのに・・・。当時は、「果たしてこの子と散歩できる日が来るのだろうか」と、真剣に悩んだものだ。僕はなんとしても、ゴースケとの「散歩みち」を作りたかった。純真無垢な存在と歩き続けることで、会社組織で10年間過ごした中でたまった澱を、浄化したかったのかもしれない。
犬は、言葉にならない人の気持ちを察する天才だ。ゴースケは、そんな思いを抱えた僕と毎日外に出るうちに、いつの間にか「早くおいでよ。一緒に歩こうよ」と、むしろ僕を先導するようにノコノコと楽しそうに歩く犬になっていた。最初に暮らしていた東京・大田区の町にあった大きなお寺の階段も、トトトっと軽快に上ったし、往復3時間も4時間もかけて多摩川の河川敷まで行ったこともある。やがて下町に引っ越すと、浅草寺、隅田川、谷中霊園、そして2度目の引っ越し先の近くの広大な水元公園と、1日2回は長い距離の散歩をするようになった。
ゴースケとのそんな日々を通じて、僕はすっかり心の傷を癒やすことができた。ゴースケは、掛け値なしに命の恩人だ。そして、僕は学生の頃から目指していたフリーカメラマンになった。新聞社では最初の7年間は記者をしていたので、文章を書くことも生業にした。もちろん、最初から全てがうまく回るはずもなかったが、2011年の東日本大震災の頃までは、なんとかやっていた。
ゴースケありがとう
震災は、08年のリーマン・ショックによる経済危機に止めを刺した。僕だけでなく、一番弱い立場にあるフリーランスは、次々と仕事を切られていった。東京で家賃を払うことも難しくなり、僕は「犬たちによりよい環境を」という本心半分、負け惜しみ半分で、長野県の蓼科高原にある親が建てた別荘に移住した。その頃には、ゴースケよりもずっと精神的にたくましい、妹分のブリンドル(黒)のフレンチ・ブルドッグ「マメ」も家族に加わっていた。
蓼科での最初の頃は、東京生活と比べて貧しく、社会から孤立した日々だったかもしれない。でも、繊細な性格なゴースケには、怖い物音や人との接触が都会よりも少ない分、心穏やかに過ごせる環境だったのではないか。本人の言い分ははっきりとは分からないが、僕はそんなふうにプラスに考えたい。
そんな高原の散歩みちが、ゴースケと僕の散歩みちの終点になってしまった。移住3年目の秋、ゴースケは僕の東京出張中に、肺炎が悪化して、その晩預けていた動物病院で亡くなってしまった。「もっと早く気づいて治療してあげられれば」「死に目にすら立ち会えなかった」。あれだけ僕と一緒に歩いてくれた恩人なのに、僕はきちんとお別れができなかったこと、僕らの「散歩みち」をきれいなハッピーエンドで終わらせられなかったことを、今でもとても悔いている。