我が家にはアイメイトのリタイア犬がいます。アイメイトとは、「(公財)アイメイト協会」出身の盲導犬で、彼は10歳まで視覚障害者のパートナーとして暮らした後、私たち夫婦のもとへやってきました。自然豊かな高原で家庭犬として暮らす穏やかな老後を、日常のワンシーンを切り取った写真とともに紹介します。
(内村コースケ / フォトジャーナリスト)
※本連載は、『愛犬の友』2020年1月号から最終号の同年7月号まで掲載された「リタイア犬日記」を引き継いだものです。
初めて聞いた「わん!」の一声
マメスケを迎えて2年2ヶ月が過ぎた2021年11月23日、長野県の自宅の妻から、東京の仕事場にいた僕のスマートフォンに「マメスケが吠えた」というメッセージが届いた。2年以上一緒にいてマメスケの吠える声を一度も聞いたことがなかった僕には、にわかには信じられなかったが、その10日後に僕も少ししゃがれた「うぉん」という声を聞くことになる。
その朝、マメスケがベッドサイドに来て僕を起こしに来た。知らんぷりしたら妻に吠えたように声を上げるかな、と思ってわざとふとんをかぶって寝息を立てた。そうしたら、案の定「うぉん」と言って、手を僕の肩に置いた。妻が聞いたのは、もっとはっきりとした「わん!」という大きな一声で、それは玄関前での散歩の催促だった。
ちなみに、いずれもたった一声だったので、その瞬間の写真を撮ることはできなかった。上の写真は吠えているように見えるが、実は、拾い食いしたドングリを口の中でくっちゃらしているだけである。
「吠えない」のは訓練で押さえつけているからではない
“アイメイトは吠えない”という伝説は本当だ。僕は15年近くアイメイトの取材・撮影をしているが、現役のアイメイトが「わん」とはっきり吠えたのをたった一度しか聞いたことがない(それがあろうことか、就任したばかりの小池都知事の前だったのは、いささか皮肉めいているが)。マメスケは声にならないような「きゅううん」といううめき声のような寝言はよく言うし、起きている時もごく小さく「くうんくうん」と鼻を鳴らすことはある。ほかのアイメイトも同様だ。ただし、はっきりと「わん」とか「ばう」と吠えることはめったにない。
これは、アイメイト特有の性質で、他の団体の盲導犬はその限りではないようだ。その証拠に、アイメイト協会の訓練・歩行指導を行う施設は、東京・練馬区の住宅密集地にあるのだが、それにも関わらず、「犬の鳴き声がうるさい」という苦情が寄せられたことがない。世界のほとんどの盲導犬育成施設が人里離れた郊外にあることを考えれば、アイメイトの血筋の犬たちが特に物静かな性質だということがよく分かる。
この事実を知ると、「アイメイト協会では、吠えるという犬の本能を無理やり押さえつける虐待まがいの訓練をしている」と、脊髄反射的に根拠のないデマをSNSなどで拡散する人が必ずいる。もちろん、盲導犬である以上、公共の場で節度ある行動が求められるので、家庭犬以上にしっかりと基礎訓練が行われる。「吠えない」ことも節度ある態度の一つなので、訓練と全く無関係ではないだろう。とはいえ、僕は何度もアイメイトの訓練を取材しているが、吠えた犬を歩行指導員が叱るシーンを見たことがない。それ以前に、訓練中の犬が吠えるのを見たことがない。訓練前の子犬も数多く見ているが、その段階でもほとんど吠えることがない。
つまり、最初から吠えないのだから、「虐待まがいの訓練」などする必要も、仮にしたくてもその機会がないのだ。アイメイト協会の施設には訓練中・訓練前の犬が多数いるが、それに関わらず近隣の苦情がないのも、「もともと吠えない」ことを証明している。やはり、アイメイトの極めて穏やかな性格は、第一義的には戦後すぐに始まったアイメイトの歴史と実績が生んだ「血筋」の賜物だとしか言いようがない。
家庭犬としての自覚の芽生え
何かを「しない」という点で、マメスケに元アイメイトらしさを感じることはまだある。「走らない」「水に入らない」の2点だ。いずれも視覚障害者と一緒に歩くにあたって、してしまったら事故に結びつきかねない危険な行動だ。もちろん、これも「吠えない」のと同様、訓練で無理やり本能を押さえつけた結果とは言えない。アイメイトとして生きてきて「自然とそうなった」ことだ。
とはいえ、リタイアして僕たちの元にやってきたマメスケは、もう家庭犬である。うちに来て2年間のうちにその自覚がどんどん強くなっている。今では時々は走るし、嫌々ながら水にも入るようになった。特にふかふかな雪の上を走るのが好きだ。本格的な雪は蓼科高原にある我が家に来てからが初体験だったようで、最初の冬から雪が降ると喜んで走っている。水は今も小さな水たまりも避けて歩くくらい嫌いなのだが、今年の夏、子どもが水遊びするような浅い川に連れて行ったところ、頑張って浅瀬に入って、対岸へ渡り切ることができた。
「走る」「水に入る」「吠える」。いずれもきっかけは僕たちが作ったとも言えるが、かといって無理にさせたことではない。放っておいても、環境や状況の変化に合わせて遅かれ早かれ自然と現れていた行動であろう。動物は、人間が思っている以上に自分の立場や置かれた環境を理解している。アイメイトになれた犬が、家庭犬になれないわけはないのだ。
「老い」も自然体で受け入れて
老境だから当たり前なのだが、マメスケにもこの2年間で少しずつ衰えが見えてきている。まず、うちに来てから2度目の血液検査で腎機能に衰えが見つかり、薬を飲み始めた。併せて、フードも療法食に切り替えた。目の瞬膜の動きが悪くなる症状も出ている。後ろ足の筋力も少しずつ弱っているようで、自宅玄関に至る長い階段の上り下りを嫌がるようになった。そのため、1週間ほど前から、老犬介助用のスロープを使って裏口から出入りするようにしている。
吠えたり走ったりするようになったのも、自然の成り行きであるように、マメスケは「老い」も自然体で受け入れているように見える。その中で、今まであまり経験してこなかったことも、自然な形で経験させてあげたい。たとえば、もともと他の犬と接するのがあまり得意ではないのだが、今年は楽しく一緒に散歩できるお友だちができた。まだ遠慮ぎみに少し離れて歩いているのだけど、楽しそうにみんなと一緒に森を散歩している。来年も、そんな自然体の日々が続くことを願っている。
(プロフィール)
内村コースケ
1970年ビルマ(現ミャンマー)生まれ。少年時代をカナダとイギリスで過ごした。早稲田大学第一文学部卒。中日新聞社会部などで記者を経験後、カメラマンに転身。同東京本社(東京新聞)写真部でアフガン紛争の撮影などに従事した。2005年よりフリーとなり、「撮れて書ける」フォトジャーナリストとして、ペット・動物愛護問題、地方移住、海外ニュース、帰国子女教育などをテーマに撮影・執筆活動をしている。特にアイメイト(盲導犬)関係の撮影・取材に力を入れている。ライフワークはモノクロのストリート・スナップ。日本写真家協会(JPS)正会員。