連載第1回
宮城県・石巻沖の田代島は「猫の島」である。古くから犬の上陸が固く禁じられ、猫のみが人と暮らしている。この全周11.5kmの小さな島は、2011年3月11日の東日本大震災の震源地に2番目に近い島でもある。
僕はバンガードインターナショナルフーズのフリーペーパーの取材で、震災の2ヶ月前と2ヶ月後に島を訪れた。その時に目にしたのは、瓦礫の間で変わらずにのんびりと暮らす猫たちと、その姿に癒やされながら復興を願う人々の姿だった。
その後、2013年1月に3度目の訪問をし、2019年7月に6年半ぶり4度目の訪問を果たした。島は確かに復興している。しかし、同時に、深刻な過疎化の進行という新たな危機を迎えている。そんな田代島は、今や僕にとって「ポスト3.11の日本」の縮図になりつつある。4回の訪問の記録から、そして、震災から10年目の2021年に向け、猫たちが暮らす“楽園”の光景を連載形式でお届けする。
<1>被災・復興、そして「限界集落」の危機
震災直前の初訪問
僕が初めて田代島を訪れたのは、2011年1月12日のことだ。その当時、バンガードインターナショナルフーズでは、『カントリーロード』『ナチュラルハーベスト』ブランドのキャットフード・ドッグフードを買ったお客さんに、年4回発行のカラー刷りのフリーペーパーを発行していた。僕はその編集長兼カメラマン・ライターをしていて、特集記事の取材のために猫好きの女性ライターと島を訪れたのだった。
その時は、ちょうど2ヶ月後に未曾有の大震災が起きるなんて夢にも思っていなかった。「猫が大事にされている楽園のような島が東北にある」という噂を聞きつけて、穏やかに暮らす猫たちの様子を写真と文章でお届けしたい、とだけ考えていた。ところが、帰京して原稿を作り始めようという矢先の震災。やがて、隣の網地島と田代島が震源から最も近い陸地だと分かった。
対岸の石巻の被害を伝えるニュース映像を見ながら、1月に田代島で出会った無邪気な子猫たちの姿や、漁港のボス猫のふてぶてしい姿が脳裏に浮かんだ。「皆無事だろうか?」「津波に飲まれてはひとたまりもないだろう」・・・。島の人々の安否すら伝わって来ない中、緊急の救助活動が落ち着いた頃合いを見計らって、地震発生から16週間後の5月3日に島を再訪した。
「猫の島」
田代島は、石巻市の沿岸部から17km、フェリーで約1時間という本土にほど近い離島である。縄文時代から人が暮らしてきた。猫とのつながりが強くなったのは、養蚕が盛んだった江戸時代に、カイコの天敵であるネズミを駆除する猫が大事にされたのが始まりだとも言われている。
民俗学者・柳田國男も、大正時代末に田代島と猫の関係を著作で触れている。柳田が特に興味を持ったのが、土地の人から聞いた「田代は猫の島だから犬は入れない。犬を連れて渡ると祟りがある」という戒めである。これは、今に至るまで厳格に守られている。なぜ犬がタブーなのか。犬を忌避する島は国内だけでも各地にあり、柳田はそれらの知識から、随筆『猫の島』(1939年)の中で次のように推測している。
「自分の推測では犬を寄せ付けなかつた最初の理由は、島を葬地とする慣習があつたからだらうと思ふ。以前の葬法は柩(ひつぎ)を地上に置いて、亡骸の自然に消えて行くのを待つたものらしく、従つて獣類の之に近寄ることを防いだ形跡は色々と残つている」「犬を特に忌み嫌つた理由は、必ずしも其の害が狼狐よりも大きかつた為で無く、寧ろ犬が平気で人里を往来するからであつた」
風葬された亡骸を荒らすとして犬が嫌われ、やがてその習慣がなくなると、犬と対極にある家畜と考えられがちな猫が大事にされるようになったということだろうか。江戸時代には、田代島は定置網漁の拠点として栄えた。定住者や往来する者も増え、風葬に代表されるような古い因習はなくなっていたと思われる。
結局、「猫の島」となったルーツははっきりとは分からないままだ。日本の因習には、あえて掘り下げない方がいいことが多い。柳田も、中世の因習にまつわる「そんな陰気な話はもう忘れた方がよいのだから、是以上に詳しくは説いてみようとは思わない」と『猫の島』で書いている。
ともかく、60人ほどの人口よりも多い100匹以上の猫が暮らし、猫神様に豊漁を祈願する「猫神社」まであるのが、現代の田代島だ。南東部の仁斗田港と北東部の大泊港周辺に人家が集中し、その仁斗田と大泊の中間地点でもある島の中心に猫神社がある。まさに「猫神様」に守られた猫の島である。生きた猫たちは、両集落と港周辺、猫神社のそばに暮らす。3.14平方kmの島のその他のほとんどのエリアは、うっそうとした原生林とかつて稲作が行われていた休耕地、断崖絶壁の海岸である。
明日への勇気を与える猫の癒やし
そんな吹けば飛ぶような小さな島だから、震災後の2度目の訪問時は、人と猫もろとも島ごと大津波に飲まれていてもおかしくない、と思いつつ、無事を祈りながら上陸した。フェリーが出発した石巻の沿岸部もすっかり流されてしまっていたから、同じような光景を想像していた。ところが、確かに船がついた仁斗田港周辺は瓦礫の山になっていたが、少し奥の高台にある集落は概ね無事であった。瓦礫の間にもちゃっかり猫が寝ていて、港を散策していると「ニャア」と鳴きながら猫たちが続々と姿を現した。その中には、2ヶ月前に見た顔もあった。
その後、島の人たちに聞いたところによれば、猫たちは揺れを察知すると一斉にサ―っと山の方に駆けて行ったのだという。震源の間近な割には、最小限の被害で済んだという印象だ。なんでも、隣の網地島に沿って津波が迂回する形になり、網地島の背後にあるより小さな田代島は、水際のみの津波被害で済んだのだという。ほとんどの島民と猫たちは無事だった。
港を見下ろす公民館の前に、木製のベンチが置かれていた。そこに3人の島のお年寄りが腰掛けて水没した港を眺めていた。声をかけると、涙ぐみながら、当時の様子、不安や復興への希望を語ってくれた。ベンチには、マジックで「かんばろう、東北、日本」と書かれていた。そして、その上に置かれていたバケツの中の貝を狙ってトラ猫が一匹姿を見せ、ひょいと前足を伸ばした。島民の涙の間で、猫たちが見せるこれまで通りの無邪気な姿。僕には、それが何よりもの癒やしを与え、明日へ向かう勇気をもたらす光景に見えた。
復興の先に見えてきた「限界集落」の現実
そして、先日の6年半ぶりの田代島。台風が接近中で帰りの便が欠航する見込みだというのにも関わらず、島に向かうフェリーはキャンプ用品や釣り道具を携えた若者と家族連れで満員だった。田代島が「猫の島」として観光客を集めるようになったのは、震災の5年ほど前からだ。島に移住して民宿を始めた夫婦のブログがきっかけで、猫にスポットを当てたテレビ取材が続き、猫目当ての観光客が激増した。震災を挟み、近年は猫目当ての観光客は落ち着いてきた感はあるが、以前からの釣り客・キャンプ客も復興と共に戻ってきて、外国人観光客の姿も目立つようになった。
復興の“救いの神”となったのも、やはり猫だった。震災後、猫を愛する島外の人々から支援金が続々と寄せられた。島の主力産業だった牡蠣の養殖施設の復興費用は、わずか3ヶ月ほどで目標額に達したという。この夏に訪れた時には、仁斗田港はすっかり近代的に作り直され、集落の外れの海岸では大規模な護岸工事が行われていた。震災の傷跡は、すっかり目には見えなくなっている。
一方で、以前に増して島民の姿が少なくなったように見えた。空き家が明らかに増えている。泊まった民宿も、87歳の老婦人が一人で切り盛りしていた。そのおかみさんに聞くと、後継者はほとんど島を出て行ってしまい、今は残った30世帯余りも老人ばかりだという。民宿やカフェを始めた若い移住者もいるが、学校がない(1989年に小中学校が廃校)ために、その次の世代が残る期待は薄い。牡蠣の養殖の担い手も今や1人だけだといい、高齢化率は実に85%に達する。正真正銘の限界集落である。「おれたちの世代で終わりだ。民宿もやめたいけど、こうして歩けるうちは続けねばいかんな」と、おかみさんは笑った。
人々の善意に守られて
島の反対側の大泊港に足を伸ばすと、港の岸壁に猫が4、5匹。そして、観光客の中高生の男の子たちのグループが釣りをしていた。猫たちは、獲物のおこぼれをもらおうと、少年たちのそばで待機していた。一匹の毛足の長いトラ猫が釣った魚を入れていたバケツを覗くと、少年たちが慌てて駆け寄り、「あっ、猫ちゃんが!ダメ、ダメ!」とバケツを遠くへ運んでいった。
少年たちは獲物を取られたくなかったのではない。猫が生の魚を食べるのを防ぎたかったのだ。島のあちこちに掲げられたポスターには、猫に無断で餌を与えないようにと書かれている。かつては、田代島の猫たちは漁師のおこぼれで暮らしていたが、今は島外の人々からも多くキャットフードの寄付があり、今の猫たちはそれを食べている。あえてリスクのある生きたままの魚や人間の食べ物を与えなくても、健康に生きていけるのだ。こうしたことは、島内外の動物愛護団体の指導で守られている。今の田代島の猫たちは、現代的な動物愛護精神のもとで生きているのだ。
しかし、「おこぼれ」であれ、「善意の寄付」であれ、田代島の猫たちは人間の暮らしなくしては生きていけない。限界集落が本当の限界を迎えて人間がいなくなってしまえば、この猫の楽園も崩壊してしまうのだ。裏を返せば、田代島の猫を守るためには、人々の暮らしを守らなければならない。震災からの復興を遂げた今、「猫の島」は新たな危機を迎えている。(次回へ続く)